え〜い、「音楽と映画」も、くっつけちゃえ!

なぜ?「読書」なのか?
そこのところから『始め』るべきだろうね。

 『みんな!発言してますか?言いたいことを、言いたいように、言っていますか?』てな、疑問が私にあります。
 
 聞き出してみても、言葉が足りないような気がします。そして「会議の席」では、発言する人が決まってたりする。
たぶん「だんまり」してる人は、話し言葉での表現力が足りないか、「恥ずかしがりや」さんなのかな。しかし、雑
談の時なんかに、良くみんなで話してたりする。ということは「論理的に話すのが難しい」んですよね。
 「私も論理的に、話したり書いたりするのはドへタ!です。しかし「へこたれずに」話したり書いたりします。

 「話がヘタ!?」それじゃ『損してますよ!』と、私は思います。

よく「話し上手は、聞き上手から」と言われます。しかし人の話は「一度きり」てのが圧倒的に多くて、例えば講
演会に「テープレコーダー持ち込み」は有っても、公演禄をとることがほとんどで、自分の話のために持ち込む人
なんて、めったにいない。「わかれば良いや。」てのがほとんどですよね。
 何故なら「文書・本」は、「繰り返して読む(聴く)ことが出来る。」からに他なりません。

「本は、繰り返し、読むことか゛できる。」利点が大きいですね。

そして、話し上手な人は「情報収集」にも、手抜かりはありません。聞き上手であると同時に、実は文書や書籍
の「読み上手」でもあるのですね。だから言葉巧みで語嚢も広く大きくて深い。ここぞと言う時蜂の一刺しみたく、
適切な表現があります。

 

あるいは「言葉は諸刃の剣」で、「自分にも返ってくる」。「反論されるのが面倒くさい」とか。

そうですね。発言内容が目立てば「叩かれる」ことが良くあります。
(私の場

合は「ボラの内」で済みますが、「仲間に及ぶことを恐れています。」これはありますよね。)
 
 なおかつ「文章表現は、残る」ので、要注意です。格好の攻撃材料にもなったりします。
しかし、それを恐れては未来創造なんてできっコありません。

 どんな形であれ「自己を表現する」ための、自分の言葉が必要です。およそ人間は学習する動物ですから
始めに自分の言葉などなく「先人の・他人様」の言葉を利用することとなるのですが、どんどん使いましょう。
 当然、そのためには「言葉の意味」をよく理解して使う必要がありますね。始めは「人の言葉」は丸暗記しなけ
ればなりませんが自家薬篭中のものとすれば、人の言葉も「自分のもの」となります。

 この時に大切なのは「話の流れ・現場・シチュエーション・舞台設定」などです。当然諸個人・本人は現場に
いる訳ですから、言葉の意味を知ってさえいれば、子供であってもコミュニケーションは可能です。
 また人々と何かする現場なら「目的・オブジェクション」も、理解しておく必要があります。
 みんなの前で「とんちんかんな発言したくない!」のは、誰にだってありますよ。
 できれば「会議をリードしてみたい」のもあるでしょう。またはパーソナリティーかな。

 ということで、どんどん読書・学問しましょう。

ここで学問も出てきましたけれど、「問いを立てることが、解を得る」ことになります。互いの話の種にもなります。

 実は「みんなで考える」ことは「みんなで話し合う」ことと、同じなのです。
 このことから「コミュニケーション上手」は豊かな知識を得ることにも、つながります。
 

そこで、参考になるかならないかは「貴方しだい」の、私の自己表現の学習の軌跡を簡単に紹介してみます。


 私の場合、まず「70年・安保闘争」てのと『ベトナム戦争』てのがあって、これが私の「思春期」なり「自我の形
成」なんかに、大きく影を落としている。(『青春が美しいなんて、誰にも言わせない。』なんて名言があった。)
そして、嫌な思い出ばかりがたくさん残っていて、何か思い出したりすると「つらい気持ち」に取り付かれたりす
る。その夜の「夢見」なんか、思いっきり悪くて、大声出して飛び起きたりする。それほど強烈な嫌な思い出が、
私の場合にはたくさん、あるんですねー。だって「最後まで闘うぞー!」って言ってたのに、途中で「挫折」しち
うし「ブタ箱」のお世話にもなったし、「内ゲバ」もあって、怪我したり、させたりしたし、結局「勝利する」ことなん
て無くて「敗北的前進」ばかりだったし、とことんへこんで後の「日和見」て゜しょ。いいことなんか何も無かった。
 そのベトナム戦争の終結の後に「ポル・ポトのキリング・フィールド」が、発覚しました。「クメール・ルージュは、
何故、こんなことしたんだろう?」、『スターリン主義的あやまち』と、すれば簡単なのですが、それだけじゃない、
とも考えました。「世界に、歴史に対する、私の問題意識」はどんどん大きくなります。疑問が大きくなれば、何
か答えも欲しくなります。しかし「世界を相手にする」なんて、おおげさですよねー。
 てなことで。「なるようにしか、ならない」なんて、考えたりも、良くしてました。でも、それじゃー「つまらない」ですよね。「なるようにしかならないところを、やれるようにやる」私の場合は、それで良い。
 今じゃ「眠れないときに、難しい本を読む」よーにしてます。 (よって読書量は激減してますねー。)
 

 この頃、およそ「本を読む=学問」してなきゃ、「〜の墓標」みたくなってたでしょーねー。
 私の場合「濫読」が、挫折の克服に役立ったところがあって、「え〜い!居直っちゃえ!」って感じでしたけど。
 およそ好奇心なり、問題意識が頭をもたげては、何かの答えが欲しくてたまらなくなり、学問=読書となります。


   ☆ ☆ そこで、「これは若い人たちにも、『是非、おすすめ!』てのをピックアップしてみました。☆ ☆
                                          (本の整理がタイへンだー!(@@)! ) 

※『 フィリップ・ボック 著 「文化人類学入門」1.2.3.4. 講談社学術文庫 』※

 この本の「言語認識」がよかったですねー。いわゆる『認識論』でね。「人の話がわかる。本の、手紙の内容
がわかる。言葉で考えを伝えることができる。」ということは、こうゆう事だったんですねー。
  ・サイン=当事者間の合図
  ・シグナル=社会的な関係の中の合図
  ・シンボル=人間の、社会的な関係の中の、言語・記号の「意味論」。「話し言葉・書き言葉」・「論文」

 文化人類学だから「文化とは何か?」ってのが、命題なんだけれど、ここに言語認識のことも書かれていて、
「人間の、言語による認識過程」が、詳細に書かれています。「目から鱗が落ちる」4冊でした。(第1冊でもOK!
私の場合は、まず、祖父江孝雄さんの「文化人類学入門」して、その次に上記を読みました。)

※『         著「知的生産の技術」    
 
 「KJ法」って、知ってますか。まず「一つのアイデア(問題意識)、一枚の小さな用紙」に書き込んで、そのことに
ついて考えを巡らせて「書き・溜め」て、みましょう。次に用紙を整理して、文章群を作ってみましょう。できたら
「見出し」をつけて整理して、行間を説明してゆきましょう。そしたら「はい、小論ができました!」てなことです。

『          著 「論文の書き方」

 「いかに考えるかを無くして、いかに書くかは、ありえない。う〜ん、名言ですな。(しかし、この一言だけ!?)






 当時のベトナム戦争は、普及したTVの電波にのって日本の「茶の間」に毎日のように残虐なシーンを送って
いた。この前のイラクでの「イラク湾岸戦争」みたいな『ゲーム感覚』でなくて「戦闘員・非戦闘員」の区別無く
ベトナムのジャングルに囲まれた畑なんかに、「B51でナパーム弾・パイナップル弾」ばら撒き投下の盛大な
ジェノサイド・エコロサイド作戦だった。逃げ惑う貧しい農民にいたく感情移入してました。
 
 写真では、ナパーム弾の火が背中にこびり付いて、丸裸の女の子がカメラマンに向かって走ってた。河の中
に三人の子供を抱えて隠れてた母親がいた。両手を後ろ手に縛られて、頭にピストル突きつけられて、その弾
丸が頭を突き抜けて、シャツターを切られた時には死んでいた青年の姿の写真があった。

 私の町でも奈良県庁舎や、近鉄・国鉄駅前なんか、あるいは教育大や女子大前で「デモ」なんかがあったり
した。
 私の場合、毎日歩きで県庁前・近鉄奈良駅前コースでしたから、そのデモの中に同級生なんかがいたりして、
うっかり話したら「戦争って、いけないよな〜。」なんて話で、「10.21反戦デー」なんかに初めてデモ参加した
のかな?。
 そうこうしてる内に「マルクス・エンゲルス・レーニン」なんてのも読み出して、批判力もないのに「鵜呑み」して
何かが判ったような気がしたり、読破した(?!)理解できた嬉しさに、友人に説教したりして、バカしてましたね。

※当時に読んでいたのは「共産党宣言・賃労働と資本・ドイツイデオロギー・経済学哲学草稿・帝国主義論・
 ローザ選集・等」でした。(他にも読んでいたけれと、おいおい小出しします。)゛※

しかし「勉強・学習」の方法を間違えていた。ことに気づきました。実は社会主義・共産主義のテキストも良いの
だけれど、それ以前のテキストを読むことも必要だったのです。(例えば「マルクスの資本論」は「アダム・スミス
の諸国民の富」を下地にしています。またヘーゲルなども良く使っています。)
そこで、お薦めの一冊はこれ。

※『 高島善哉  「社会科学入門」 岩波新書』 

これ一冊で「西洋の社会科学の発展過程」を一望できます。諸テキストのエッセンスをゴチソウチャンできます。
あとは「岩波のブルーバックル」に挑戦です。また「〜入門」を読んでおくことも「問題意識を研ぎ澄ます」ことに
良いことだと考えます。

およそ「汝の心の存するところに、汝の宝あり」です。およそ問題意識なくしてテキストを読むなんてできない。






 結婚した後に赤ちゃんもできたし、いつまでも「バカやってらんねー」し、てなことで、アルバイトに精だして、
「よく働き・よく学べ」の連続が、「連日連夜」に及んだ日が何年間かありました。じつは高校三年の秋に中途
退学てことで「ドロップアウト」やっちゃいました。まだ、意地張ってて「高校なんか卒業してやんない!」てのが
ありました。「大検」受けようかとも考えた時もあったのですが、「好奇心」の赴くままに学ぶ私に「大学」はさほど
魅力のある所には見えませんでした。事実、高校生の時に有名大で「ニセ学」やってたから『学ぶのは自分自
身だ!』てのが、強くあったのです。京大の法学部教室よりも、早稲田大学の図書館のイメージが強く残ってい
たのです。私の場合は高校生の時に大学を渡り歩いていたのですねー。ははは…汗!




※『 小泉信三 著 「共産主義批判の常識」 講談社学術文庫 』※

 なんや、人間の欲望には、際限が無いやん!なるほど、「計画経済」なんて『絵空事』やん。て、わかりやすく
書いてくれてましたね。しかし「剰余価値」は?どないなんのん?の、疑問が残っています。



井上靖  「しろばんば」 「天平の甍」「楼蘭」「孔子」等

梅原猛 「神々の流残」・「隠された十字架」・「仏教の思想」等

芥川龍之介 「奉教人の死」・「蜘蛛の糸」・「地獄変」・「羅生門」・「藪の中」等

宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」・「春と修羅」詩集等

石川啄木 「同・詩集」

高橋和巳 「邪宗門」・「我が心石にあらず」・「中国散文撰」等

三島由紀夫 「豊饒の海」等

笠井潔 「織天使の夏」・「バイバイ・エンジェル(シリーズ)」・「テロルの現象学」・「哲学者の密室」等
 「大量殺戮(民族浄化)・テロリズム・戦争(犯罪)・宗教戦争」


『 船戸与一 』・「蝦夷地別件」・「砂のクロニクル」・等
  『観客的日本人について』
 船戸与一氏は時代を撃つ作家の一人であり、グローバルな視点からの告発者の一人であるだろう。
私は『蝦夷地別件』や『砂のクロニクル』などで筆者の慧眼に感嘆した。今、この人の『新宿・夏の死』
を読み終わった。
 作家が作家なだけに『解説』を読むのも楽しみであり、解説を読めば新たな観点もそこにはあり、自
身の理解程度がまだまだ浅はかであることも気づかせてくれる。解説は人と文章と内容の紹介であり
また解説者の批評などもあり、けっこう勉強になることもある。
 今回「関口苑生」さんが解説を担当しているのだけれどその中で<観客民主主義>という言葉にいた
く引かれて、考え込んでしまった。それはTVのコメンテーターをして、様々な事件をとりあげ、あげつ
らうのだけれども、しかしコメンテーターは「自己を当事者としては見ない・参加していない」。そし
てTVを見ている人々も同じく「いやだね・なりたくはないね」と言い、そこに「自己を当事者として
は見ない・参加していない」関係式が定立してあるのだ。「しょせん他人事」であり「当事者でないな
ら発言に値しない」とでも考えるのだろうか。よって若者の無軌道なふるまいも「他人に危害を加えな
いなら、大目に見る」のだろうか。
 これは「公私の公」でも「自己主張・自己否定」でも「大人の態度」でもないだろう。どちらかと言
えば「主体性の喪失」に近いものではないだろうか。
  およそ国家社会であれば「社会人」は各々の本分を遂げることにより、社会システムが機能して一億
二千万国民は安心して毎日を生活することができる。時おり社会に適応できない、逸脱・落脱した人間
が犯罪を犯しても法権力がこれを裁き平和が保たれる。(この表現は問題を孕むが、ここでは言及しな
い)しかし「自然災害」はカントリーリスクでもあり、『天災』であり、「物理的(そのもの)に」抗す
術も無く、被災すれば「その人の不運」に終わってしまう。
「これではいけない」ということで災害諸法が充実され経済的な救済策も、また物理的な方法としては
耐震建築なども充実してきている。
 「災害ボランティア活動」も阪神大震災を契機に一般化してきたし、災害時の「ボランティア活動」
も、04水害や「新潟中越地震」・「福岡県西方沖地震」・「スマトラ島沖地震・インド洋大津波」で
の国家的支援もボランティア団体などの支援活動も、活発におこなわれている。
「およそ災害のたびに人間の英知は培われ充実してきている」ということができるだろう。
およそ「大災害」である場合には「みんなで助け合う・みんなの力をあわせる」ことが必要だろう。
 ただし「参加する者にだけ」だろうかな?。「観客的態度」または「主体性の喪失・未確立」であれ
ば、そこにはおぼつかないだろうな。
 ボランティアの活動スタイルは自由であり、その人の顔の形をした活動があれば良いと私は考えてい
る。だから「募金」も立派な活動だ。ただ「募金集団」なる『募金詐欺はやめましょう!』よ、ねー。
しかし、騙されるほうもどうかしている。善意と「善」そのものは違うし「自分のすること」には責任
がある。ならば相手が何者かは自分で見分けることがあっていいはず。当然「そのお金がどう生きるの
か」という疑問があってあたりまえ。どうかするとそこには「自己満足」という言葉も浮かんでくる。
空虚なことだ。
  「つきつめて考える・問題と向き合う・他者と相対する」、ことに不慣れな社会人・日本人の姿が見
えてくる。たぶん政治交渉も下手だろうな。「竹島問題」なんか見てると他国の国民の方がマトモにも
見えてくる。(そうでもない、ことも知っている。ただし人心操作は他国が上手)
 しかし、およそ「りっぱな社会人・国際人」とは、日本では、「立派な日本人」のことであるだろう。
それは無国籍でなく国籍を持つだろう。国家は国際的な関係の中の、単位としての国家なのだ。それが
日本であるならば「立派な日本人」の日本は帰属であり、属性であり、「何人もいずれかの国籍を持つ」
のだ。だから日本人が日本の権利と義務を行使するとき、「堂々」としてやれば良いと私は考える。
 およそ「主体性のある日本人」であるからこそ「全てのことに前向き・未来志向」であるだろう。
 ボランティアとは「主体的な生き方」であるだろう。
 近未来に到来するであろう「大災害」を前に「観客的民主主義国家」は敗北をまぬがれないだろう。それとも
「大災害」に打ち勝つには、「立派な日本人」の民主主義国家が、真に大災害を克服するのだろうか。



北方謙三 「逃れの町」等(ハードボイルド一連作) ・「明るい街へ」・「林蔵の顔」等
 『私が、モーゼを通してあなたがたに告げておいた、「逃れの街」を、貴方がたのために定め、あやまって、知
らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込めるようにしなさい。その街々は、貴方がたが血の復讐をする者から
逃れる場所となる』 ヨシュア記
 ははは…。私は聖書を知ってる訳ではありません。「北方謙三」氏の同名小説から知りました。これは「私の町
づくり」活動にも影響しています。もっと「仲間作り活動を!」と、「忘れ者・仲間はずれ」を無くそうと思います。人
と人とが向かい合うことが大事だと考えています。 とかく戦争の無くならない時代も、「人間」であるなら、「そう
なるしかないのかな?」なんて考えてしまいます。
 「戦争は政治の暴力的貫徹」ならば、暴力は野蛮なのだから、「人間同士で話し合おう」とはならないのかな?
戦争は政治の敗北ですよね。政治家同士できっちり話ししあえば良いのにって、いつも思います。  「私の神様
は本物なんだ。いや、こっちの神様が最高なんだ!」って言って強者の詭弁論理で「大量殺人を合法的にする」
のは、どうかしてると思いますけどね。当然「テロルは弱者の論理だ!」とゲリラ戦を正当化するのも間違いでし
ょう。そして、しかし、お互いに「降りかかる火の粉は、払わねばならない!」ですよね。いきなりミサイルや爆弾
やショットガンを撃ちこまれちゃたまりませんって。「即反撃!」ってなりますよ。それじゃ。
 日本では「自殺志願者・殺人事件」や「幼児誘拐殺人事件」や「十七歳少年の凶行」も「誰をして、彼を代弁で
きる」のでしょうか?これは、もう終わりなのかな。ただ「職員室に防具を常備してある」ことには驚きました。私
の頃の「学校」は遠くなった気がしました。「なんでも相談に乗ってくれる先生」は、いなくなったのかな。それよ
り世相が殺伐としているのかな。自殺志願者はこれからも増大するのかな。いやな世相ですね。
 奈良を震撼させた「幼児殺人事件」も、これっきりにして欲しいです。
 亡くなられた方達の死の意味を考える必要があると私は考えています。




中島敦 「山月記」「李陵」等

吉本隆明 「共同幻想論」・「超資本主義」


西光万吉 同・論文集等
 「水平社宣言」の執筆者である。戦中にナショナリストに転向した。「何故?」の疑問が私にあった。
人からの借り物の「論文集」だったので、今は読み返せない。右翼転向した彼の筆致は「優しい」のに、目を
見張った。彼は獄中で何に気づいたのだろう?もう一度、読み返してみたい。

中上健二 「日輪の翼」・「枯木灘」・「鳳仙花」等

          「保田興重朗伝・空ニモ書カン」

司馬遼太郎 「この国の形」

木田元 「実存哲学入門」・「偶然と運命について」
 

折口信夫 「死者の書」

埴谷雄高 「死霊」
 観念小説というジャンルのあるのを知った。自然界においては「食物連鎖=生命連鎖」であることをに気づい
た。

五味川順平 「人間の条件」等 
・「TVドラマ」でやってたのを見てて、本を読んでみたくなった。

野坂昭如 「蛍の墓」 
・何度「泣いた」だろう。日本の「反戦文学」の最高峰だと思う。アニメ映画になったけれど「文章」の方がはるか
に優れている。(これを読むまでの、筆者のイメージは「エロじじい」だった。)

田川健三 「イエスという男」
・イエスは「ヘブライ人」。金髪の白い肌の青い目のイエスなんかじゃない。マルコムXも指摘していた。

五木寛之 「朱鷺の墓」・「戒厳令の夜」・「風の王国」等

山田太一 「獅子の時代」
・NHKのTVドラマでやってました。「自由自治元年」の旗がこの時代を象徴していました。「あんたとなら、どこま
でも行けるさ!」と言った菅原文太がカッコ良かったなー。


和辻哲郎 「日本精神史研究」

次田潤 「新祝詞考」


丸山真男 「日本の思想」

吉田靖男 「行基と律令国家」

              「親鸞・歎異抄」

吉川英二 「親鸞」

沢田  「レクイエム」写真集

井沢元彦 「言霊」

陳舜臣 「アヘン戦争」

     「日本語の正体」

三国志・水滸伝・聊斎志異・中国古典名言辞典


アリストテレス  「形而上学」

プラトン 「ソクラテスの弁明」・「国家」

カント 著 『永遠平和の為に』 (岩波文庫)

 「永遠平和の為に」  (「ベトナム反戦」の頃に読みました。)

 ☆この「カント 1724〜1804」の著作は「純粋理性批判・実践理性批判・判断力批判」の三部作を記した後の
著作であり、時は「フランス革命」の後期であり、執筆動機はパリ革命の後の政府がプロイセンとかわした「バー
ゼル平和条約」への不信感の表明であるようである。およそ立憲君主制政治より、共和制国民国家の台頭期で
あり、革命の嵐がヨーロッパを包んでいた。ここで彼は君主や時の政府が自国民の民衆を扇動し、いたずらに消
耗されてゆく様を見て、見かねてこの小論を発表した。
 ☆私の感じたところは、

第二条項 独立しているいかなる国家も、継承・交換・買収または贈与によって、ほかの国家がこれを取得
         できるということがあってはならない。(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題でない。)
 
 『つまり国家は、所有物(財産)ではない。国家は国家それ自身以外のなにものにも支配されたり、処理され
てはならない人間社会である。ところがそれ自身が(大樹の)幹として自分自身の根をもっている国家を、接ぎ
枝として他の国家に接合することは、道徳的人格である国家の存在を廃棄し、道徳的人格を物件にしてしまう
ことで、したがってこうした接合は、民族についてのいかなる法もそれなしには考えられないような、根源的契
約の理念に矛盾する。こうした(国家の)取得方法についての誤った考え、つまり国家もまた互いに結婚できる
といった考えは、ヨーロッパ以外の諸大陸ではまったく知られなかった考えであるが、この考えが現代の我々に
いたるまでヨーロッパにどれほどの危険をもたらしてきたかは、誰もがよく知っていることである。…(抜粋)』
 
第三条項 常備軍は、時とともに全廃されなければならない。

 『なぜなら、常備軍はいつでも武装して出撃する準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の
脅威にさらしているからである。常備軍が刺激となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それ
に費やされる軍事費の増大で、ついには平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となり、この重荷を逃れるた
めに、常備軍そのもの先制攻撃の原因となるのである。……(抜粋)

『(人間は自他の人格をつねに目的それ自体として扱うべきであって)人を殺したり人に殺されたりするために雇
われることは、人間がたんなる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思わ
れるが、こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう。…(抜粋)』

☆☆『だが、国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外
   からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である。…(抜粋)』☆☆                             
……という、ところかな。もっと「精読」する必要がありますねー。



ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」・「地下生活者の手記」

サルトル 「実存主義」

ヤスパース 「理性と実存」

『ハンナ・アーレント著 「全体主義の起源」 みすず書房 』
 「アウシュビッツの悲劇」は何故起こったのだろうか?「反ユダヤ主義と全体主義・ナチズム」は何故?
iただナチズムに限らず「反〜」の民族排外主義はなぜおこるのだろう?日本にても「重慶への戦略爆撃・
南京虐殺(?!)・「731部隊の人体実験・虐殺」問題を抱えている。
 人間はどこまで残酷な行為を他者に仕掛けることが出来るのだろうか?私の大きな疑問である。
『…、今世紀の最も大きな未解決の政治問題の中でもまさにこのユダヤ人問題が、全体主義支配機構の凶悪
きわまる全装置を動員させたといういかがわしい栄誉を担っているということである。…(抜粋)』
『…反ユダヤ主義は、ユダヤ人が社会生活の中でその機能と影響力を失い、富のほかにはもはや何ものも所
有しなかったときにその絶頂に達したのである。…(抜粋)』
『…この歴史をもって説明され得ないのは、秘密結社の成員によりその方法によって施行されるべき全体的な
支配たらんとする全体主義の要求が、そもそも何が故に魅力的な政治目標などになれるのかということである。
…。(抜粋)』
ただ今も「NHK アウシュビッツ」を見ていた。呆然とする。普段なら「恐ろしい」ことが、「あたりまえの如く」進
行してゆく。
『私・私たちは、繰り返しては、ならない。そのためには真実より目をそらしてはならない。(真理・真実追究)』

ギボン・クラウゼビッツ・ルソー・トロッキー・バクーニン・ケネー

ジョージ・オーウェル 「カタロニア賛歌」・「動物農場」・「1984」

       「アラビアのロレンス」

       「ガンジー伝」

ウンべルト・エ―コ 「薔薇の名前」・「フ―コーの振り子」

マックス・ウェーバー 「

コーリン・ウィルソン 「アウトサイダー」・「宗教とアウトサイダー」

G・グティエレス 「解放の神学」

レイチェル・カーソン 「沈黙の春」
 有吉佐和子さんの「複合汚染」なんてのもあったかな?ま、「化学物質」は「使いよう」だろうね。
 後先をよく考えようね。
ラブクラフト 作品集等

オスカー・ワイルド 「幸福の王子」・「サロメ」等

ヘルマン・ヘッセ 「車輪の下に」

アラン・フルニエ 「さすらいの青春」

ヘーゲル 「小論理学」・

アダム・スミス 「諸国民の富」

モンテスキュー 「法の精神」

ロバート・キャパ

シュバイツァー  「水と原生林のはざまで」・「同・論文集」
・「…生命に奉仕すること」は、論文集の方です。



当然『マンガ』も、良く読んでいました。
この頃は週刊誌の「サンデー・マガジン・キング・ジャンプ」なんかが全盛でしたが、私なんかは、

※『ガロ』青林堂※
に、はまってました。いわゆる「70sガロ」の世代ですな。ガロそのものは長井勝一さんが、
白戸三平さんの『カムイ伝』の連載を続けるために創刊されたマンガ雑誌で、他に手塚治虫さんの「COM」なん
てのもありました。それで「どっちの派か」というより、やはり「どちらが面白いか?」ということで、私は「ガロ派」
という訳ですね。現代でも一流の執筆人はここから多く輩出しています。
(この頃の音楽では『友部正人』さんが良かったナー。)

『カムイ伝』 白戸三平 著

を、私は何度も読み返しています。
第一部の封建藩主に対して「封建制度や身分制度」に押しつぶされることなく「自由と独立」を個人の生活レベル
にて獲得しようと闘う主人公達に「入れ込んで」しまいます。
 江戸期の主人公達のおかれた生活状況は身分制度により「搾取と抑圧」のもと過酷ですが、ドラマであればそ
れは各人各様に立ち現れてきます。
 下人の子・正助、非人の子・カムイ、武士の子・竜ノ進、悪代官の息子・一馬ら、そしてそれらをとりまく人々と、
人と人は時間の中で出会い・別れを含みつつ場面は相関関係のもとに、どんどん展開してゆきます。
 通じて私にわかることは「生命の発現」でしょうか。「道端の石ころにさえ意味がある」とした映画ジェルソミーナ
の意味を、ここに私は同じものを感じます。 たとえば「私の世界」としても、人と人は繋がってあるのですね。
 私のご先祖様の江戸期はどうだったのか、知る由もないのですが、この主人公達とどこか重なるところがある
のかもしれませんね。




池上遼一
かわぐちかいじ
水木しげる
つげ義春
つげ忠お
古川益三
永島慎二
ほんまりう
川崎ゆきお
林静一
勝又進
滝田ゆう
永井豪
楠勝平
山田紫



「音楽の話」(映画もあるよ)
・私の中学校の音楽の先生は教科書より「愛唱歌集」を中心に、「歌を歌う楽しさ」を、教えてくれた先生でした。
音学じゃない音楽でした。ピアノの上手な女性で、生徒を歌う気にさせるのが上手でした。「音の楽しみ」を教え
ていただきました。私は中学生になって初めて大きな声で歌うことができるようになりました。(ちなみに小学生
の頃は「音符」なんてチンプンカンプンだったから「音楽なんて大嫌い!」だったのですね)
 この頃グループサウンドは下火になり「フォークソング」などがフォーククルセダース・高石友也さんなんかが出
てきて、少し遅れて岡林信康さんが出てきた。ラジオの深夜放送の全盛期を迎えます。この頃鉱石ラジオなんか
を作ってたりしてたので、すっかりラジオにのめり込み、「ポップス・ロック」なんかも人より早くワッチしてました。
オーティスレディングやシュー・プリームスもこの頃耳にしました。何故かビートルズやローリングストーンズより
ソウルミュージックの方が楽しく聞こえたのです。少し遅れてモンキーズショーがTVなどで放映されてアメリカン
なスタイルにかぶれてしまいました。
 中学3年生の頃に近鉄奈良駅前で「フォークゲリラ」があって、しかし、「知らない歌」ばかりで参加できなかっ
た。今思えば中川五郎さんの歌なんかを歌ってたんでしょうね。
 深夜のTVではまず、ナウ・エクス・プロ―ジョンがあり、ミック・ジャガーが黒のマントにシルクハットかぶって
や公園を走り回って「ジャンピンク・ジャック・フラッシュ」を歌ってたのを覚えています。その後に「ソウル・トレイ
ン」が始まりもータウンサウンドにはまりました。 ただ「英語そのものは大のにがて」で、『発音』できないから
鼻歌ばかりでサウンドに合わせていましたねー。今では「日本語の露骨さ」で、CDを何度も聞き一緒に歌うこ
とでポップスのスタンダードナンバーを歌うようになりました。
 先の学生運動への参加で「音楽すら聴けない」時期が3年間ほどあり、この頃は街中に流れる音楽のみを楽
しみにしていました。
 覚えているのは「喝采・青いリンゴ・シェリーに口づけ・再会・唐獅子牡丹・さすらい・面影」などですが、歌謡曲
は聴けても演歌にはなじめませんでしたねー。
 この頃は喫茶店で「ワルダクミ」てのが多く、ジャニスジョプリンの「ミー&ボビーマギー」を聞いたときはそこを
走り出して汽車に飛び乗りたい衝動にかられたのを覚えています。実際高校をドロップアウトした時にはジャニス
の歌と友部正人さんの歌ばかりが頭の中をぐるぐると廻っていました。
 デモに出れば「インターナショナル」・「ワルシャワ労働歌」・「若きプロレタリア兵士の歌」・「第七旅団の歌」など
を歌っていました。わけても「ワルシャワ労働歌」は良く歌われました。
 この頃はボブ・ディランやCSNやバンドなども出てきてたのかな?しかしウェストコーストなサウンドとは距離
がありすぎましたね。
 ジョン・デンバーやカーペンターズゃステッぺン・ウルフなどを聴いたのはこの頃かな、前後してるかな。
ウッド・ストックやイージーライダー、少し遅れていちご白書だったかな。ブルースブラザースなんかもあったかな。
全て音楽が良いのがついてて、あとで音源を探してましたね。

『イージーライダー』
 奈良町の猿沢池の東側に『尾花座』という映画館が、私が高校生の頃にはまだあった。今はホテルになった。
ここで友人と二人で見たのだけれど、また彼はスティ―プ・マックィーンにどこか似た奴で「バイク野郎」で時々
彼のバイクのけつに乗せてもらっていたので、そのお礼もかねて男同士で見に行った。
映画は先のステッぺン・ウルフの音楽と荒野に伸びる一本道。じーっと見てるとバイクが二台?走ってきて、それ
はピーター・フォンダと?相棒で、チョッパーの「ロード・ムービー」版だ。途中でデニス・ホッパーが弁護士役で
入ってきて奇妙な旅が始まってた。この時のセリフがイカしてた。
『自由を語るより、自由であることが、大事なんだ。』頭にガ〜ンと来た一言だった。

『ウッド・ストック』
ウッド・ストックはBig Concertでしかない。当時アメリカの音楽のスター達の競演であり、時代を映していた。
いろんなミュージシャン達を映画で一同に見れるのが、楽しみだった。これも友人と二人で見に行き、上映時間
と彼の田舎に帰るバスの都合で、最後には一人で見ていた。学校の帰りで見に行ったから学生服のまんま。


 カーリーサイモンなどはバイトしてた工事現場のラジオから流れてきました。小林あきらの順子もしんみり聞き
ました。私の中で少し変化のあったのは、この歌のせいかもしれません。歌謡曲もエエなー。
 結婚が早かったので20〜30代は「音楽抜きで、布団の中が読書の時間」で、濫読してました。新聞や雑誌の
読書欄や、「読書案内」を見つけてはチェックしてましたね。
 小林克也さんのMTVがようやく始まりました。シンディー・ローパーやマドンナ、ユーリズミックスやワム、リマ―
ル、ジャクソン・ブラウンやブライアン・アダムス、などなど新しいスターが次々と新しいサウンドで出てきました。
 プリンスやスティービーワンダーやティナ・ターナーが光ってました。そうだカーズやキッスクィーンなんかもあり
ましたね。



このごろ「あちらの音楽番組が、少ない!」ですね。ちなみに「ヒップ・ホップ」なサウンドにはついていけません。
「わてもオジンの仲間入り」になっちゃったのかな〜。

つづく

・私と「読書」と…。(ボランティア的?!「人生」と、「音楽」と「映画」と。)

 こんなタイトルは有りかな?!しかし若い人たちにも、「もっと勉強しよう!」てのがあって、こんなのにしました。
 (しかるに、私の読書量も大したことはないんだな。これでどこまで行けるのか怪しいな!コンナンバッカリ!!)

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