聖武天皇と「災害救援」の思想について

大仏建立の詔勅に聖武天皇は「万物の動植、悉く栄む。」と述べられました。国家統治の法として「華厳経」を頂き、民衆を統治する方として「法華経」を戴く聖武天皇の仏教への認識は、底辺に「生命・人間・愛」が溢れています。
聖武天皇は「災害と疫病」から民衆を守る為、「大仏建立」を成されました。東大寺は総合大学・現場実習の活動の場であり、総本山としての位置にあり、諸国国分寺・国分尼寺を建立し、日本中の隅々まで仏法の光をあてようと計画なされました。僧・行基は「善智識」達を指導してこの任に当たります。
この頃に日本の優れた若者達を全国より集め、僧として修業させ、「大仏建立」は「識字率」を大いに増大・普及させます。文明国家の建設・天平の「文明開化」であります。
正倉院も各地に建設され「兵站基地」の役割を担うのでしょう。蓄積された富・渡来の薬品は、民衆を救うために緊急時に放出されます。
「如何ほどのものか。」と現代人・学者が言います。思想も科学も未分化な時代だと言われます。しかし、天平の大仏殿は現在の物の1.5倍の容積であり、コンピューターも重機械も無い時代に「人々の手により」建設されたのです。日本中の人々が手と手を合わせ、人海戦術を展開し「力を一つに結集」させたのです。日本が、奈良が、「大和」と呼ばれるのもこの頃からです。
しかしボランティア「人海戦術」は21世紀にても有効なのを私は水害被災地にて見てきました。
阪神大震災の時には「ライフライン」が寸断されました。これはある意味で部分的な「文明崩壊」現象であるのでしょう。しかし人々が手と手を合わせ力を結集すればこれを乗り越えることができることを、この時に人々は証明したのです。「ボランティア元年」とさえ言われました。支えあい・助け合うのは人間のDNAなのです。叡知なのです。
聖武天皇は「心あらば一枝の草、一握りの土をもちて造佛を助けたまえ。」と、言うことで民衆を現場にボランティア参加させ、識字・教育を普及させて、民衆に近代科学・仏教の叡知を伝えたのです。叡知により民衆を目覚めさせ、「困難に立ち向かう」勇気としたのです。
聖武天皇・行基の、「善知識」とは、「天平のボランティア」達であり、果敢に「災害と疫病」とに闘ったのです。そのDNAは21世紀を生き抜く私達にも流れてあるのです。
(byみやづのぶお)

         
聖武天皇の事績(年表)  
(東大寺 聖武天皇御傳より、○)・ (続日本記 宇治谷猛 現代語訳より「 」) 
            <大赦=天下に恵みを与え、万民を治める>
※ 神亀元年(724)  二月四日
○皇太子即位、詔して天下に大赦し、文武の職掌・高齢・孝子・節婦等を表彰し給ふ。
「……天皇の遠い先祖の御世より、中ごろを経て今に至るまで、天の日嗣として高御座におられ、お治めになる天下をいたわられ恵まれたことは、その時々の情況に応じて治められ、恵みを賜れた業であると、神の身として思っている。このために先ず天下に恵みを与え、人民を治めたいと天下に大赦を行う。」
「みなし子・独居老人の自活できない者には五斗を給する。孝子・順孫/義夫・節婦は、すべて村里の門に、その旨を表示し、租税負担を終身免除する。」


※ 神亀二年(725)  閏正月十七日
○災異を除かんが為に、宮中にて大般若経を読誦せしむ。
※           三月十七日
○浮賊の災に遇へる常陸國の百姓に賑恤を加え給ふ。
※           九月二十三日
○天皇、天變地變の責を感じ給ひ、三千人を出家せしめ、七ヶ日の轉経により災異を除かんと欲し給ふ。
※           十二月二一日
○天皇、人命を重んじ給ひ、死罪・流罪の囚徒の罪を減じ給ふ。
※ 神亀三年(726)  六月十四日
○天皇、國民の病に辛苦するを憂ひ、醫薬を施して救療し給ふ。
※           七月十八日
○元正太上天皇、御病未だ平癒せず。仍てこの日より疾病の民に湯薬を施し、僧尼を度し、諸社に幣帛を奉る。
※           九月十二日
○今秋大に稔って天下豊潤、天皇、百姓とその慶びを共にせんとし、田祖を免じ給ふ。
※          十二月二十四日
○尾張・遠江國の飢饉・水害にあたり、賑貸を加え給ふ。

※ 神亀四年(727) 二月二十一日
○災異止まざるをもって、左大臣長屋王をして勅を宣べさしめ、官人奉公の善、不善奉聞せしめ、又、諸國々司の勤怠を巡監せしむ。
※          二月二十三日
○天皇今秋の豊饒を冀ひ、庶人に至る迄、塩・穀を賜ふ。       (冀ひ=こいねがう)
※          十月二日
○安房・上總二國、台風等により災害を蒙るにより、賑恤を加へ給ふ。
※          十月五日
○天皇、皇子誕生の為に中宮に幸し、官人等に物を賜ひ、罪人の科を赦し給ふ。
※ 神亀五年(728) 八月二十一日
○皇太子の御病平癒を願ひ、勅して造佛・写経等をなし、天下に大赦し給ふ。
※          九月二十九日
○流星、断散して宮中に落つ。
※ 天平二年(730) 四月十七日
○皇后宮職に施薬院を置く。
※ 天平三年(731) 十一月十六日
○天皇、京中を巡幸し給ひ、禁獄の死罪人以下を免じ、衣服を給ふ。
※         十二月二一日
○詔して神馬出現の慶を祝ひ、天下に大赦し、高年・孤独の者等に賑給し給ふ。
※ 天平四年(732) 六月二十八日
○此の夏、陽旱にして雨を得ず。
※          七月五日
○亢旱により、詔して諸国に祈雨し、天下に大赦し給ふ。
※         十二月十七日
○河内國丹比郡に狭山池を築く。
※ 天平五年(733) 一月二十七日
去年の旱害によりて、讃岐・淡路國等の百姓飢餓す。依て賑給す。
※        二月七日
○紀伊國旱害あり。十六日、大和・河内國の百姓に賑給す。
※         三月十六日
○旱害により遠江・淡路に賑給す。閏三月二日、和泉紀伊等諸國に大税を借貸し百姓の生業を援けしむ。
※            五月二十六日
○光明皇后の不豫により、勅して天下に大赦し給ふ。
※            是歳
○旱害により、百姓に賑貸す。
※天平六年(734)   四月七日
○大地震、天下百姓の家屋倒解甚し。廿一日、使者を京・畿内に遣し百姓の疾苦を問はしめ給ふ。
※          七月十二日
○天下の災異甚しきにより、大赦す。
※天平七年 (735) 五月二十三日
○天皇災異の頻発を憂ひ給ひ、天下に大赦し給ふ。
※          五月二十四日
○宮中及び大安寺等四大寺に於て、災害を消除せんが為に大般若経を轉讀せしむ。
※          八月十二日
太宰府管内に疫瘡流行して病死する者多し、勅して、神社に奉幣し、又所寺に読経せしめ、疫民に薬湯を給ふ。
※          閏十一月十七日
○災異頻発す。依て詔し、天下に大赦し給ふ。
※            是 歳  
○本年不作にして、諸国裳瘡にして死せる者甚だ多し。
※天平八年 (736) 七月十四日
○元正太上天皇不豫により、詔して四大寺の僧をして行道せしめ、諸国疾病の百姓・僧尼等に薬湯を賜ふ。※       十月二十二日
○太宰府所管の諸国、疫瘡により困窮す。仍て、詔して免租し給ふ。
※          十一月十九日
○五穀不穣により、四畿内等の今年の田祖を免ず。
※天平九年 (737) 四月八日
○大安寺道慈、天下の災害を除かんとして、毎年大般若経傳讀の勅許を乞ふ。
※          四月十九日
○太宰府管内の諸国疫瘡に倒る者多し。依て諸社に奉幣し、貧窮罹病の者に薬湯を賜ふ。

※          五月十九日
○天皇、四月以来の疫瘡・旱害甚だしきを憂ひ給ひ、、天下に大赦し給ふ。
※          六月一日
○疫瘡流行により廃朝す。
※          七月五日
○疫瘡により大倭・伊豆・若狭に賑給し、十日、伊賀・駿河・長門の疫飢の民に賑給す。
※          八月十三日
○春より災気發って官人百姓の死亡殊に多し。仍て、詔して今年の租賦を免じ、諸社に奉幣せしむ。
※          八月十五日
○天下太平・国土安寧を祈らんが為に、宮中に於いて大般若・最勝王経を読ましめ、天下に僧を度す。
※           是 歳  
○春、疫瘡筑紫より流行し、秋に亘って公卿百姓の死する者、極めて多し。
※天平十年  (738) 一月十三日
○阿部内親王を皇太子となし、天下に大赦す。
※天平十一年  (739) 二月廿六日
○光明皇后、不豫により、天下に大赦す。
※天平十二年  (740) 六月十五日
○勅して国家の太平を寿ぎ、天下に大赦し給ふ。
※天平十三年  (741)  二月十四日
○詔して、国家の隆昌・安寧を祈らんが為、諸国に国分寺・国分尼寺を造らんとし給ふ。
※             八月十五日
○佐渡国霖雨やまず、依って今年の田祖等を免ず。
※             九月四日
恭仁京遷都のために調租を免じ、又八日、勅して、天下に大赦し給ふ。
※天平十四年  (742)  五月三日
○使者を遣わして、病にあへる民衆の家業を視察せしむ。
※             九月十二日
○大風雨により宮中の殿舎及び民家倒壊す。


※天平十五年  (743)  一月十三日
○衆僧を金光明寺に請じ、七々日を限りて最勝王経を読ましめ、別に大和国金光明寺に殊勝の会を設け、国土の厳浄、人民の康楽を祈り、像法の中興を期せんとす。
※  五月三日
幣帛を畿内諸社に奉りて雨を祈らしむ。
※天平十六年  (744)  五月二十八日
肥後國地震、三郡罹災甚し。仍て賑恤を加ふ。
※天平十七年  (745)  四月二十七日
巡察使 の奏により、詔して、去年の田租を免じ、天下に大赦し給ふ。
※        是日
昼夜地震あり。美濃國被害甚だし
※        五月
是月地震殊に甚だし。仍て諸寺に読経、諸陵に幣帛を捧ぐ。
※天平十九年  (747) 一月一日
廃朝。天皇不豫により、勅して天下に大赦し給ふ。
※            二月二十一日
年穀稔らず。仍て詔して大臣以下諸氏長官等に税布等を賜ふ。
※            二月二十二日
大和・河内等の十五箇国飢饉仍て諸国の民に賑恤を加ふ。
※            四月十四日
紀伊國、疫病・亢旱により賑給す。
※            五月十八日
近江・讃岐の二國飢饉。仍て賑給す。
※            七月七日
京師、・亢旱により、詔して名山・諸社に祈雨し、田租を免じ給ふ。
※天平二十年 (748)  三月八日
◎天皇、禁を犯せる者多さを憂ひ、己の訓導よろしからずとして、天下に大赦し給ふ。
※天平勝宝元年 (749) 一月四日
この頃、亢陽により五穀運上せず。仍て官人等に給米す。
十日、上総國に賑給す。
※天平勝宝元年       二月
下総に蝗害・石見に疾疫あり。よって夫々に賑給す。
※            閏五月十日
時まさに炎暑にして、天皇不豫なり。詔して天下に大赦し給ふ。
※天平勝宝三年 (751)  十月二十三日
聖武太上天皇不豫により、詔して、新薬師寺に於いて続命の法を修さしめ天下に大赦し給ふ。
※天平勝宝四年 (752)  四月九日     『大仏開眼供養』
※天平勝宝五年 (753)  四月十五日
光明皇太后不豫につき、詔してその平癒を祈り、天下に大赦し給ふ。
※天平勝宝六年 (754)  一月五日
孝謙天皇、東大寺に幸して萬燈会を行ひ給ふ。又是日、天下に大赦し給ふ。
※天平勝宝六年       七月十三日
聖武太上天皇御生母、太皇太后宮子不豫につき、詔して、天下に大赦し給ふ。
※天平勝宝六年       十一月八日
孝謙天皇、聖武太上天皇・光明皇太后の聖体安穏を祈らんが為、薬師悔過を修し、天下に大赦し給ふ。
※天平勝宝七年 (755)  十月二十一日
聖武太上天皇不予により、その延命を願わん為、詔して、天下に大赦、又、殺生を禁断し、諸陵に奉幣し給ふ。
※天平勝宝八年 (756)  四月十四日
聖武太上天皇不予により勅して、天下に大赦し、除病延年を祈り給ふ。
※天平勝宝八年       四月二十九日
医師・禅師等を京・畿内に遣わし、疾病の徒を救療せしめ、又、八幡大神宮に幣を奉る。
※天平勝宝八年       五月二日     『聖武太上天皇』崩御
※天平勝宝八年       六月二十一日 
聖武太上天皇七々日に当たり光明皇太后、国家の珍寶、玩好の遺品を東大寺に施入し、聖霊の菩提を願い給ふ。(正倉院)
※天平勝宝八年          是日
孝謙天皇、種々の薬を盧舎那佛に奉り給ふ。

東大寺

信楽京
恭仁京

平城京

出雲大社

手掻会(転害会)

正倉院

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