私が大震災の後に「現地入り」したのは2/11の日。もう三週間も時間は過ぎていた。子供の入試や
店の建て替えローンなどで「にっちもさっちも、ままならない」(言い訳みたいでごめん!)状態だった。それ
を行く気にさせたのは芦屋市民のボランティア活動だった。なに「テレビ放映」されていた活動に子供
達までもがボランティアに参加していたのが「まぶしかった」からだ。「熱は写る」のだ。その気になってし
まった。それ以前にも日赤青年奉仕団なんかにも参加していたのだが「あること」がきっかけになり活動
を中止していた。
 この時わたしには「参加する・連れて行く」組織が無かった。これは痛い!。人・物・金・情報が集まらな
い。しかし「行ったら、何かできるだろう」と考えてボラセンと連絡を取り「買えるだけ・もてるだけ」の物資
を買い込み友人と私の子供一人、三人で現地入りした。
 そこで見た風景にあっけに取られた。「どうすれば街がこんなになるんだ?」
 そこにあるのは、私が子供の頃によく父親に聞かされた「大阪大空襲」のイメージにも近い。
 
 もうTV・新聞で見ている。しかし、眼前に広がる光景は違った。「私は被災地に立つ」この意味は大きい。
 風が「音と匂いとホコリ」を伴う。TVドラマの主人公になったような気分。私は観客であることから、現地
に入ることにより「主体」を取り戻したのだ。およそこのことより私は「現場主義」的な活動スタイルを取る様
になる。「書を捨て、街に出る」ことにも通じる。
 およそ「実践」とは、その向こうに活動主体の人生があるのだ。
 出会う人々は、被災者であるか、免れた人か、ボランティアであるかのどれかで「共通体験ょり共通認
識」により、話も気持ちも良く通じる。
 
 『現場へ!』それは「臨機応変」と共に「災害ボランティア」の合言葉でもあるだろう。
(後方支援の軽視では、けして無い!)
  
 TV・新聞は「匂い・ほこり」を伝えない。写真はけっして「真を写す」のでない。ドキュメントはドラマの一
面をかろうじてクローズアップするだけ。だと、気づいたのだ。
 人として、人に、対象に、真正面から向きう会うことが大切なのだ。「人の目線で見つめる」ことだ。
 この十年に、私は「他者に何かを語る」ほどの活動はできていない。しかし何人もの先輩達や幾つもの
グループリーダーの知己をえることができた。私は、私の活動の足場を固めつつ「大災害、来襲!」を向かえ撃つ意志と陣形を構築しなければならな
い。
           『たかがボランティアに、何ができるって言うんだい!?』

『現場で鍛えた知恵があります!仲間達がいます!』
           
            『私は、私達は大災害と斗かう!ボランティア!!です。』 

                      (意気込みだけで「実態が伴っていない!」深く、反省。みんな反省。)

阪神大震災の記録と記憶  

阪神大震災の、その日まで『日本なんか消えて無くなれ!』なんて私は考えていた。
私に日本は「厚顔無恥な破廉恥な強欲なマーチャント国家」にしか見えていなかった。
 
私は70年安保世代であり「極左暴力集団」にも一時参加していた、動機は「ベトナム
戦争」であり、民衆の頭上に振り落とされる爆弾やナパーム弾が赦せなかった。およそ
、人間のすることじゃない。まして安保で協力しながら銭儲けもするなんて、「ユルセナイ!」
なんて、高校生ながらに考えていたからだ。
 何故戦争が起こるのか?無くならないのか?と、考える内に「帝国主義論」や「共産党宣
言」などの社会科学に傾倒し、マルクス史観に裏打ちされた「叛帝国主義」を標榜する高校
生になってしまった。およそ「政治・党・組織・動員・展開」なと゛思想研究はここで学んだ。
 しかし自主独学の学習態度もおのずと身についた。
 しかし、熾烈な内ゲバや、政治活動についていけず、もっともっと疑問も生まれてきた。
「侵略戦争は悪くて、解放戦争は正しい???」でも、それって戦争でしょ!?
 「鉄の規律」と「命令」と、同じジャン!自由ってナーニ?平和ってな〜に?
「プロレタリア独裁と社会帝国主義の違いはな〜に?」などなど。
しかし、当時の仲間と徐々に話ができなくなる。失語症に近くノイローゼ気味にもなる。
およそ、社会が転倒して見えて、何が正しいことなのかわからなくなった。
 このとき「ドロップアウト・自覚的落ちこぼれ」になった。
 
 そののちの転向の後に、「赤十字活動」や「アフリカ難民」の国際支援などに関心は持つ
ものの、「ベトナム反戦」当時の「若者にありがちな血気盛ん」は失せていた。
 すでにある意味人間に失望していたのた゜。同時に世帯を持ち子育ての最中で「理屈
はいらん」状態でもあった。
 
 しかし阪神大震災の「被災規模と現実」が私の世界観を変えた。私は被災したのでな
いのにパニックにおちた。ある意味世界観が崩壊し、「人が生きる」ことの世界観をもう
一度再構築を始めた。その基礎はたったニ・三日の内にできたのだけれど、「近所のオ
ッサン・オバハン」連中を自身の世界観の基礎に据えるのは、まだなお自分自身に抵抗
があり、まだ良くなじめないものがあった。
 
 私は独自の日本民衆史観の試みを開始したのだ。それは日本ロマン主義にも以前
のプロレタリア文学にも通じるものがある。(私は自称して「新世界・日本ロマン主義」と自
身では納得している。しかし体系化も、全面展開もできないでいる。)
 
 72.「内ゲバ・連赤事件・沖縄闘争」などの、自身の関わりの態度で「敵前逃亡」した
私には、『時代』から敗走したという自意識が強くある。それはそれでなおざりにして、
ホッタラカシにしても良いものかもしれない。しかし、今はそのことも含めて地震や「大災
害」と対決する心積りをしている。「人間には、意味がある」と考えるのだ。

72.「川島英悟」さんが『生きてりゃ良いさ』を歌い街角に流れた。私の聞いたのは加藤登
紀子さんが歌っていたものだ。あの時の『安堵感』は、今も衝撃的に記憶している。何故なら
私の参加した党派は自殺者を多数だしていた。もう少し生真面目なら私も自滅していた。
(一人は鉄道自殺、もう一人はアパートの二階に火を放ち焼死した。)

およそ「人が生きる」ことに理屈などいらない。自意識が、意欲が在ろうと無かろうとどう
でも良いこと。そう「ひらきなおる」のに、私も何年もの時間がかかっていた。

「世界がある・人が生きてある」ことは文句なしに大事なこと尊いことなのだ。そのことにより
日本があり、人々が生きてあることは間違いなく、尊いことなのだ。
過去も、今も、人々は精一杯のことをして生きてきた。戦争もあって、「あたりまえ」なのだ。
およそ人間は「誰しも発展途上人」であり、国家・世界も「みんな試行錯誤して大きくなった」
 
 これが私の「災害ボランティア」の原点となる。人種や貴賎を問わない。被災者が窮地
にあるなら赴いて抱き上げるべきなのだ。立場の逆転もあるだろう。もの申すべくありたい。

「やるべき時に、為すべきを成す」ことができるように、私は努めたい。
                                  後悔しない生き方だと思うのだ。

・当時は三冊のアルバムを持ち、防災活動のアプローチブックとして使っていた。これは最後の一冊がのこって
いたものをスキャナで取り込んだもの。ある意味「地味」な写真。

酒屋さんの「二階部分」が、落ちてへしゃげて見える。
間口を広げて見せるため店舗部分の柱が少ないので
このように「前のめり」に潰れる。

これは倉庫が潰れて二階が残る。前のめりで歩道に
乗り出して潰れている。

鉄道の橋脚が潰れて落ちた。強度計算では
落ちないものが、潰れて落ちている不思議。

「ゴミだし」のゴミが道の両側に山積みとなる。
生活の匂いもする。

橋脚の下は「民家・事務所・商店・工場」である
のだろう。潰れると同時に焼けたりだろう。

焦土と呼ぶに相応しい。

どれだけの衝撃力なんだろう?

これは両面、「石垣の水路」だったが、右側が
崩落している。石組みがバラバラになっている。
何故?

ビルのセットバックした屋上部分が落ちて
もたれてるのか、隣のビルが中折れしたの
か、今ではよくわからない。記憶はあせる。

3.4階部分の壁面が破砕している。だけではなく
構造全体に影響しているだろう。

マンションの手前の建物がペチャンコだった。

窓のガラスが割れて破片が下に落ちただろう。

高速道路がねじれかけ、ゆがんでいる。下では建物解体が始まっている。

歩きつかれてタクシーに乗った。街は焼けていた。
どこなのか、今ではわからない。

焼け落ちた家屋の一群。焦げた匂いとホコリが町中を覆っていた。
自分の暮らす町が「こうなる」とは、誰も考えない。考えられない。

こんな大きなビルが中折れして3階部分を破砕してしまった。
地震の前で「堅牢強固」は意味が無い。

殺風景な街の姿。しかし、人は生きる。
その鼓動を聞き取る必要がある。

私はこのビルの前に立ち、身震いがした。「ビル火災」は良く聞くがこんな
焼け跡を見たのは生まれて初めての体験だ。恐怖に震えたのだ。
「みんな助かったのか?」難しいだろう。

居住者もボランティアも見分けがつかない。

小公園に「ボランティアセンター」らしきもの
を見た。誰にも声が掛けられないでいた。

一つ、不思議な景色がある。

大阪(梅田駅」に帰り着けば「日常性」がそこにあり
「震災の面影」など、何処吹く風になった。
奈良に帰れば「何ほどのことも無い」
1/17を境に、人生を無くした人、変わった人、
人それぞれの震災があった。
 願わくば「困難を乗り越えてあらんことを!」

青少年の犯罪が増えるのかと心配した。
いいや、概ね青少年は「逞しく育った」。
災害ボランティアの前線にも、彼らは立つ。
今、私は彼らとスクラムを組むのが楽しい!

何が何でも「人生を楽しく行きたい!」
ボランティアは私のライフスタイルになった。

(050524up)

※( 記録と「記憶」なので、私事が絡みます。悪しからず
ご了承くださいませ。)