『ぶらぶら地蔵』                               (ぶらり奈良町3号に掲載されました。)      宮津宣雄

ぶらり奈良町、ぶーらぶら。たんたんたぬきのーぶらぶら。ぶらりと北へ道案内。
登大路の県庁前を北へ過ぎれば、そこは『きたまち』。私の町は『東大寺郷』とも呼ばれる所。「ならまち」であれ「きたまち」であれ、ぶらぶら歩けば地蔵様に「こんにちは」おや「こんにちは」。
路傍に立たれ何百年。陽を浴びて風の中、雨に叩かれ雪をかぶり泥にまみれても笑みを絶やさず、いつも私達を見つめてくれているお地蔵様。お地蔵様の道中記の始まり始まり。

「県庁前」京街道を北へと参りましょう。県庁東・知事官舎の手前、「緑池」の前に「とどろき橋」の石碑がある。歩道の一部が三枚の石畳であるところがそうです。


                            

並びの大きな銀杏の木(雄)の下には「一里塚」まである。日本の道路行政はここから始まったと言いたげだ。この銀杏の木は「天平の甍」で有名な大安寺僧・普照の植えたなごりだろうか。だったらいいのにな。鑑真和上を迎える旅の苦労の夢のなごりがここに生きていることになる。実はとなりの大きな木や切り株はエノキで漢方薬の材料となる。その頃地方から奈良へ来た旅人達が奈良みやげに木の実を持って帰ったかもしれない。
おっと道草くってちゃいけない。少し戻って知事官舎の前を過ぎ、「依水園」を左折し、水門町を通り抜け、「戒壇院」を目指しましょう。石段を登ったら左に道をとり、門前を通り抜けましょう。そしてまた門を過ぎ石段を降りたところを右折して大仏池の前に出ましょう。



大仏池に出たなら左に道を取ります。少し歩くとどうです。大仏殿が池面に映え、みごとな景観にため息をつくでしょう。若草山が借景です。満月も上弦の月も風情があります。

天文十九年(1550)、この若草山の二重目には「地蔵岩」と言われた3m余りの大きな石があり、地蔵像が線刻され「南無春日大明神」と銘刻されていました。興福寺の勧進僧が建立したようです。後に(宝暦・1751〜)誰かがこの岩を谷底に突き落とします。法難に合われたのです。今は野上(農神)神社の近くにあります。約200年の間、奈良の町の御来光はお地蔵様と共にあったのです。


            


うーん。左折・右折はめんどくさい。地図を見て歩きましょう。まずは大仏池の周囲にてもう一服しましょ。大きな銀杏の木(雌)がここにもあります。秋には大きなギンナンの実がなります。そしてそこは「正倉院」の入り口に近いところ。この池にはよく愛らしい水鳥達が遊んでいます。運が良ければカワセミにも出会えます。ここの川原で「みちくさ」すると、他にも楽しいことが一杯あるんですよ。「あれ、これこそは天平の甍」ナイショの本当。道草してちゃダメダメ。もって帰ってはダメダメですよ。

◎ 『東大寺講堂跡』(日本初のお地蔵様)
少し池の向こう。大仏殿の裏側は「講堂跡」。お地蔵様が像として作られのは、天平十九年二月十五日(747)光明皇后様が発願され、東大寺の講堂に本尊として千手観音(二丈五尺)、脇侍として虚空菩薩、地蔵菩薩(立高一丈座像)が作られたということが「東大寺要録」に記されています。『日本で一番目』なんですよ。一番目。いよっ、『日本一』。(だから復元して、顕彰してほしい!!って言うの。)


                      



この東大寺講堂で千人近いお坊様たちが一切衆生のために学問をして菩薩になるべく努力していた。行基様・聖武天皇と「善知識」や名も無き万民とが力を合わせ、共にユートピア蓮華蔵世界を「現実化しよう」としました。天平の壮大なロマン。眼の前の大仏殿は全て人々が力を合わせて建てたものでしょ。クレーンもブルドーザーなんてのも無かった時代。残念なことに講堂と共に(治承の乱を含む三度?)焼失したとのことです。このお地蔵様は東大寺から巣立つ若いお坊さん達を見守っていたんですね。
行基様の師匠である道昭様がどうも一番初めに日本にお地蔵様を紹介し、行基様がお地蔵様のようなことをするから、光明皇后も聖武天皇も「ここにお地蔵様にいてもらおう。」てなことになったんでしょうね。確かにお地蔵様と行基様はダブります。善知識の、後の時代の「聖」達の象徴が、お地蔵様ではないでしょうか。(そう見えるのは僕だけかな!?)
当時の中国では三階宗と言う衆派がありました。則天武后の頃に禁圧のため、後に滅びてしまいます。ここがたいそうお地蔵様を大事にしたようです。しかしその精神は中国
浄土教の発展に多大の貢献をし、日本浄土教にも法然・親鸞へと命脈を繋げています。
『願わくば、尽未来劫、悪趣六道を住処とし、百千億劫のうち世界所有の、地獄および三悪道の罪報に苦しむ衆生を、広く方便を設けて成仏し終わりて、我、しかる後にまさに正覚を成さん。』


このお地蔵様の「本願・誓願」は行基様の「願いと祈り」そのものじゃないでしょうか。確かに行基様は「三階仏法」を勉強していた、と僕も思っています。それだからこそ聖徳太子の理想と実践をも継承したのでしょう。施薬院・悲田院・布施屋、そして溜池の造成・架橋工事等、今日の社会福祉事業の原型はすでにここにもあるのです。
「行基と律令国家」(著者・吉田靖男)は行基菩薩の天平ユートピアを僕に語ってくれました。
お地蔵様から大仏様をたずねた私ですが、学んだ本の内、「聖武天皇」(著者・中西進)によると聖武天皇は亡くなられる前に河内の知識寺や行基様ゆかりの寺を行幸されたとあります。聖武天皇は行基様を深く敬愛しておられたのですね。当然、大仏様を拝観しましょ。
(東大寺偏向と言われそうだけど「天平ロマン・お地蔵さま」を読み取るには『大仏建立』は欠かせません。東大寺郷のを含め、合わせればその数に圧倒されます。)

◎ 『東大寺念仏堂・夜泣き地蔵・笛吹き地蔵』
たぶん釣鐘堂の近くの「念仏堂」の地蔵様は、講堂で焼失したお地蔵様がモデルじゃないか、と私は考えています。普通お地蔵様は立っておられる姿が多いのですがここのお地蔵様は坐っておられます。『いつまでもここにいて欲しいから』と、作った人は考えたのでしょうか。
そしてこのお地蔵様のお腹の中に胎内仏として「夜泣き地蔵」様がおられる。糸女という遊女が主人の気を引くため、持仏である沈香木でつくられたお地蔵様を削り取り香料として身に付けていた。あまりの痛さにお地蔵様も泣いたのです。
尚、ここに杉板に書かれた「笛吹き地蔵」の絵が、以前には在りました。そこには「笛をふき 蓮をかづく 地蔵尊 伊勢や河内の 弓矢おさまる」の歌と、蓮の葉を笠に横笛を吹くお地蔵様の姿があったそうです。(みんなで遊べば仲良くなれる。戦争は無くなる。ということかな)
ここは一般拝観はしていませんが、堂守の方にお願いすると参拝できます。
ここは八月二十四日にお祭されます。地蔵盆より一月おそくなります。

◎ 『僧形八幡神坐像』
ここまで来たなら「手向山八幡宮」にもお参りしましょう。かつて「手向山八幡宮」には僧形の「八幡様」がお祀りされていました。それは、あたかも生きているかのような八幡神。(いえ、私が見れば「お地蔵様」です。う〜ん、この表現には問題があるかもしれない。)今はここにはありません。明治の神仏分離令により今は東大寺勧進所の八幡殿に安置され10月5日の「手掻会」の日に一般参拝を受け付けています。東大寺の神様というと若い人には違和感があるけど、「神仏習合」の歴史は心が豊かに満ちているんですよ。「今昔物語」でもお地蔵様は大活躍。おすすめです。「法華堂」にもお地蔵様はおられます。「二月堂」」にもお参りしましょう。

◎ 『まんなおし地蔵』
どんどん見て回りましょう。二月堂左手を少し下り、川の小道を登り行き「まんなおしさん」にもお参りしましょ。「まんのわるいこっちゃ」「よろず」直してくれるから、「万直し地蔵」と言うらしい。関西一円より善男善女の信仰を今も集め、お参りの人々が絶えない。将軍地蔵とも伝えられています。


                   


◎『文使い地蔵』(乞ひ文・恋文地蔵)
東大寺「知足院」の本堂にもお地蔵様はおられます。本堂に「解脱上人・貞慶」が春日大社に参篭し伝授されたとの云われがある、厨子に収まったお地蔵様。端厳にして眉目秀麗の一品。このお地蔵様は文使い地蔵と言われ、とても素敵な話が伝えられています。
 鎌倉時代、大仏殿再建の造立長官にあった藤原行隆は任務を果たした後に病死しました。行隆には幼い娘がありました。幼い娘の嘆き悲しむ様は一通りではなく、縁者の涙さえ誘ったのです。ある日幼い娘は年来父親が朝夕に礼拝したこのお地蔵様の手に手紙を持たせることを思いつき、父親への手紙を書きお地蔵様にお願いしたのです。「大聖地蔵菩薩さまは六道能化の主にましますなれば、どうぞ父のもとへこの文を送り届け、代わりの文を戴きたまへ」と。すると、どうでしょう。願いと祈りは七日目に叶えられたのです。幼い娘はこの朝に地蔵菩薩の持つ文が自分のものとは違うことに気づき、開いて見ればそれはまぎれもなく父親からの便りであったのです。「幼い娘よ。なにも悲しむことは無い。生者必滅はいたしかたなく、今は汝と私が世を隔てるも、いつかは共に浄土に住まう。私は前世に東大寺の奉行を、造寺興仏に勤め人々の幸福を願い誠意をもって行った。今は功徳を受け都率の内に住まい弥勒慈尊の説法を聞き、心身安楽であり自由自在である。天人も五衰するなれば天上界より優れて在る。そうであるから、なにも悲しむことは無い。幼い娘よ。常に東大寺に参詣し大仏様に礼拝せよ。そうすれば必ず仏の浄土で再び共に暮らせるであろう。積もる話もその時にできるであろう。心を明るく持つが良い。」と父親の字で記してあるではありませんか。幼い娘はあやしみ不思議に思いましたがそこには父親の幼い娘への愛情が綴られているのです。幼い娘は涙し悦び、この地蔵菩薩と大仏様への信仰を新たにしました。このお地蔵様は冥界との通信を果たしてくださるのです。
七月二十四日の地蔵盆の翌朝には東大寺の僧侶一同が会し古式豊かに供養される。この日、朝早くに見れる。必見の要有り。

◎ 『矢田地蔵』
「空海寺」には十王を従えておられるお地蔵様がある。私が地獄に落ちたならこの「閻魔様」十王の審判を四十九日の法会の度ごとにうける。しかしてその実態は「お地蔵様」であることを教えてくれている。悪さしたなら正直に白状しましょう。そしたら閻魔様がただちにお地蔵様になり変わり、私を地獄から救ってくれる。
空海寺のご本尊は「阿那(穴)地蔵」、「かな地蔵」とも云う。60年に一度しか見れない。だから見たことが無いのに紹介する、いらだたしさ。(空海の作とも云う)
お地蔵様は慈悲深いゆえに極楽浄土に住まず、この世との縁が深いゆえに入滅もせず、人々の信仰の力を待たず、臨終の際とも限らず、貧しき者、悪しき者達と交わり、縁無き衆生すら救いたまうのです。





◎『見返り地蔵』
「五劫院」を入り本堂を右へ墓地の手前に「見返り地蔵」さま。「誰も忘れていないか、置き去りにしていないか、」と、最後まで衆生の救済に気をつけておられる。
この地蔵様の光背右に『右趣意者東大寺花厳恵順』の銘がある。ふむむむ!!
実はこのことはす〜んご〜い想像力を掻き立てることなのだ。「地蔵菩薩秘記」には、お地蔵様こそは毘盧舎那仏・大仏様の化身であると書かれている。十王を従えたお地蔵様も墓地の中央におられる。 





◎ 『佐保川地蔵』
店のとなりの細い路地を西へ入るとすぐ。何故なら店前の通りの少し北向こうが佐保川の「石橋」。名の通り支柱が石で出来ている。この川の橋梁工事のさいに多くの地蔵様が川から出てきた。実は修行の途中ではあるが(川が氾濫しないようにとの願いを込め、川に入れられた。多聞山城の地蔵様を河川工事に利用した。!?)、もう御用は済んだのでここで「お祭り」しようとの意味がある。となりに「佐保姫神社」が並んでいる。

                


◎ 『北山十八間戸』
表通りへと返し、きたまち店を出たなら通りを北へ。坂の途中に西大寺「叡尊上人」の弟子「忍性上人」の建てた施薬院。主にハンセン氏病の治療にあたったと云う。全く何の飾りもない小さな建物だけど、ここに仏教の精神「慈悲と救済」の証明がある。


       



◎ 『六地蔵』
北山十八間戸の辻をしばらく東に行くと墓地があり、そこには六地蔵様が並んでおられる。いつかは誰もが六道の何れかを通る。お地蔵様は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の何れの辻にも立っておられます。よもや見落としなさることはございません。


                 



◎ 『夕日地蔵』
会津八一は「ならざかの いしのほとけの おとがいに こさめながるる はるはきにけり」と歌う。う〜ん。どうなんだろ。私なら、う〜ん、「おうらいを すぎゆくひとに ふくかぜの いぶきやさしき じぞうあらせば」と読む。あかん、やめとこ。季語が抜けてる。ボキャ貧やもんね〜。


             


◎『かなえ地蔵』般若寺と石仏群
きた道を戻して北へと進路を進めよう。しばらく歩けばそこは般若寺。「願いかなえ給へ」の「かなえ」より名づけられたという。何百年の間にどれだけの人々のどんな願いをかなえたのでしょう。気になるところです。お地蔵様だけでなくここには他にも様々な仏様たちがおられます。
しかしここではめずらしい『笠塔婆』に着目。弘長元年(1261)鎌倉時代に「宋人・伊行吉」が、伊行末と現存生母の冥福供養の為に建てた。この人は大仏殿修理で有名な陳和卿と来日し、大仏殿の石壇、四面回廊と諸堂の修復にあたった。この寺の十三重石塔も彼の仕事。「一切衆生と共に『極楽界』に生を受けることを願う」と銘文に記す。「一切衆生と共に」というところが気概を伝えていませんか。
この北へ向かう道は「京街道」。大仏殿を立てた巨木は木津からこの道を通る。まさに歴史街道そのもの。

                  


◎ 児川地蔵
奈良豆比古神社の手前、ここのお地蔵様は化粧しておられる。お地蔵様への信仰のありかたがそうさせる。「赤いよだれかけ」は、始めは子供達の古着であったらしい。昔々は子供達が成人するのは困難な時代だった。お地蔵様へ、お地蔵様に、「わが子」を思わないでいられない何かの理由があったのでしょう。ここより北方面に化粧地蔵は多くなる。
                                                                                        

◎ 若草中学『多聞山城址』
永禄三年(1560)松永弾上久秀は多聞山(眉間寺山)に四層の櫓をもつ多聞山城を築きます。もし天守閣や多聞櫓(光明皇后陵上であろう)に登れたならば、北は木津川・山城・宇治方面へ、西は生駒・信貴山・金剛山系にして、東は大和青垣の山々、南は吉野山や大峰山系までスコーンと見渡せたであろうかもしれません。彼は政治戦略拠点として、「迎賓館」としてこの城を築き、富の集中と経済活性化をはかり、城の基礎石として「お地蔵様」を使用したようです。なんとバチ当たりな奴ですね。でも意外と将軍地蔵や矢拾い地蔵の「ご利益」を期待して装飾的に使ったのかもしれません。称名寺千体地蔵の多くはかつてこの城にあったものと云われています。

◎ 川中地蔵
今は暗渠になって見えないけれど、この下を大仏池からの川が流れている。ここは川久保町。吉城川との合流地点。なお豪雨の時に雨水の氾濫が第一に起こるのがこの地点。川の出会いは神聖な所。川を久しく保つようにとの願いがあるのだろうか。近く奈良奉行所跡(奈良女)があり「首切り地蔵」もここに同じく奉られているらしい。

◎舟後光地蔵尊
川久保町の念声寺は浄土宗、武田信玄ゆかりの英輝上人が建てたお寺。光背が舟形だからそう呼ばれる。三途の川もこれで渡れる。
                                                                                          
  
中国浄土教は道安・慧遠に始まり、質を変え曇鸞・道綽・善導の「欣求浄土・厭離穢土」『極楽浄土』へと昇華して、日本の法然・親鸞を輩出する。お地蔵様は「地獄抜苦」に優れても、衆生を「極楽浄土」に救えないから阿弥陀様がお手伝いしてくださる。だから二体で並んでる形のがたくさんある。頭が「ボコッ」と二つに見えるのが阿弥陀様でお地蔵様は宝珠と錫杖を持っておられる。
(そう言えば、親鸞上人もお地蔵様とダブって見えます。いや化身なのだ。だから南無阿弥陀仏と唱え、悪人往生を主張する。この頃、僕たち一般庶民はみ〜んな悪人だったんだ。大慈大悲心の一切衆生の救い。「善人なおもちて往生をとぐ。云わんや悪人をや」との逆説。「地獄は一(必)定すみかぞかし」との決意。これはお地蔵様の発想だろう!?。飛躍してるかな?。でも全てお釈迦様の弟子ですけれども。)
散歩の道すがら!?これだけ歩くともう「しんどい」。こんなにたくさんのお地蔵様が在る。そこでクイズです。合計何体のお地蔵様があったでしょう。
僕は答えられません。だって知らない内に増えたり減ったりしている。何故か。どれか歩き廻るのがあるらしい。ははは。
こんなにたくさんあるから、たくさんの人々が作った。それはむかし昔の人々の生きた証であり、僕たち今を生きる未来人へのメッセージ。そこには願いがあり、祈りがある。それは省みて私達へ語りかけるべき何かなのでしょう。今でさえ善男善女の祈りを請う。人々は時空を越え同じ悩みを抱いていたのかもしれない。だから僕たちは昔々のおとぎ話に心を躍らせるのでしょうか。
人々はお地蔵様を作らずにはいられなかった。そこには僕達の遙か知ることのおよばぬ苦労があったのでしょうね。
「一切衆生を済度救済するまでは自己は仏陀覚者にならぬ」、との誓いを立てられた地蔵様。心が「いし」に形として現れたのだ。お地蔵様はそう言いたげです。
「意志」の地蔵様はいつも私たちの町にあり、見守り、一歩前に出て私たちに助けの手を差し延べてくださってるようです。しかし時が過ぎすぎて、人の心が風化し始めたのか、お地蔵様の風化は過酷ですね。
一度「きたまち」のお地蔵様を訪ね、お地蔵様の話、悩みも聞いて廻ってほしい。そんなことも考えました。どっさりしんどいけれども、あ〜楽しい一日だった。ありがとう。

「 おじぞうさま データベース 」